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アンゲリカ・カウフマン

アンゲリカ・カウフマン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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曖昧さ回避 この項目では、スイス出身のオーストリア人画家について記述しています。オーストリアの絵本作家・イラストレーターについてはアンゲリカ・カウフマン (イラストレーター)をご覧ください。
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アンゲリカ・カウフマン『自画像』(1780年 - 1785年)

マリア・アンナ・アンゲリカ・カタリーナ・カウフマン(Maria Anna Angelika/Angelica Katharina Kauffmann, 英語よみ:アンジェリカ・カウフマン、1741年10月30日 クール - 1807年11月5日 ローマ)は、スイス出身のオーストリア人新古典主義画家。
生涯 [編集]

アンゲリカ・カウフマンはスイスのグラウビュンデン州クールで生まれた。しかし育ったのは一家の出身地であるオーストリアのフォアアールベルク州シュヴァルツェンベルクだった。父親のヨーゼフ・ヨハン・カウフマン(Joseph Johann Kauffmann)は貧しいものの熟練した画家で、絵のためによく旅をしていた。娘にも絵を教えた。母親のクレオフェア・ルッツからは複数の言語を教わった。アンゲリカは絶えず読書し、音楽家としての才能も示したが、際だっていたのは絵画だった。12歳の時、聖職者や貴族たちが絵のモデルになったことで有名になった。1754年、父親にミラノに連れて行かれた。続いて、長期間にわたってイタリアを旅行し、1763年にはローマを訪れた。1764年に帰国するが、ローマからの帰途、ボローニャやヴェネツィアに立ち寄ると、どこでもその才能と魅力が歓迎された。
カウフマン『デヴィッド・ギャリックの肖像』(1741年)

ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンは1764年8月、ローマから友人のフランケ宛てに書き送った手紙の中で、カウフマンの人気について言及している。カウフマンはヴィンケルマンの半身肖像画とエッチングを描いているが、ヴィンケルマンによると、カウフマンはドイツ語と同じくらい上手にイタリア語を話し、フランス語、英語も使え、ローマを訪れたイギリス人たちに人気の肖像画家になったということだ。「彼女は美しいと言えるかも知れない。そして歌わせれば、最高のヴィルトゥオージと肩を並べるかも知れない」。ヴェネツィア滞在中、カウフマンはドイツ大使の妻ウェントワース夫人に誘われて、ロンドンに同伴した。ロンドンではデヴィッド・ギャリック(David Garrick)の肖像画を描き、カウフマンが「メイデン・レーンのモレイン氏の大きな部屋」に着いた年に展示された。ウェントワース夫人はカウフマンを社交界に紹介し、カウフマンはどこでも歓待され、とくに王族がカウフマンに好意を示した。

サー・ジョシュア・レノルズは大の親友だった。レイノルズの手帳には、カウフマンのことが「Miss Angelica」または「Miss Angel」として頻繁に出てくる。1766年、レイノルズはカウフマンの肖像画を描き、そのお返しにカウフマンも『サー・ジョシュア・レイノルズの肖像』を描いた。レイノルズとの親交を示すものとしては他に、レイノルズが2、3年後にボーヴァリエ夫人やクルー夫人の肖像画で繰り返したテーマである、グエルチーノの『われアルカディアにもありき』のカウフマン版が残っている。

1767年11月頃、カウフマンがスウェーデンの伯爵(ホルン伯爵)を偽った冒険家に騙されて秘密の結婚をした時に、レイノルズがカウフマンを窮地から救った。ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ設立のための王への請願書にカウフマンが署名しているのはレイノルズの尽力に報いるためだったのだろう。1769年の最初のカタログで、カウフマンの名前の後には「R.A.(ロイヤル・アカデミー)」と書かれてある。ちなみに、ロイヤル・アカデミー創立メンバーにはもう一人女性会員としてメアリー・モザー(Mary Moser)がいた。カウフマンは『ヘクトルとアンドロマケーの会見』他3枚の古典的絵画を寄贈した。

1775年、同僚のアカデミー会員ナサニエル・ホーン(Nathaniel Hone the Elder)が風刺画『魔術師』の中で、カウフマンとレイノルズの友情を批判した。ホーンはイタリア風のルネサンス美術の流行を攻撃し、レイノルズを愚弄し、さらにはカウフマンのヌード戯画を描いたが、それは後にホーン自身によって塗りつぶされた。この作品はロイヤル・アカデミーによって拒絶された。

1769年から1782年にかけて、カウフマンは毎年出展した。7枚出展したこともあった。テーマは概して古典的または寓意的なものだった。その中で最も有名なものは『フランシス1世の腕の中で息を引き取るレオナルド』(1778年)である。1773年、カウフマンはアカデミーからセント・ポール大聖堂の装飾の仕事を頼まれた。サマセット・ハウス(Somerset House)のアカデミーの古い講義室の絵もカウフマン(とビアッジオ・レベッカ Biagio Rebecca)の作である。

カウフマンの長所は、18世紀アカデミック絵画の中で最も上流で金になるジャンルである歴史画にあった。レイノルズの指揮下、アカデミーは肖像画や風景画の注文・購入により関心のあった自国民に、歴史画を強く奨励した。カウフマンはイングランド社交界で楽しまれ、画家として成功していたにも関わらず、イングランド人が歴史画に対して比較的無関心なのに失望していた。結局、カウフマンはイングランドを離れ、歴史画が地位を得て、尊ばれ、後援されていた大陸に戻った。
カウフマン『ミランダとフェルディナンドの情景』(1782年)

不運な結婚がカウフマンの人気を傾けた可能性もある。最初の夫(長く別居していたが)の死後、1781年に、カウフマンはイングランド在住のヴェネツィアの画家アントニオ・ズッキ(Antonio Zucchi)と再婚した。まもなくしてカウフマンはローマに行き、そこでヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテらと親交を得た。ゲーテはカウフマンのことを、自分の知っているどんな画家よりも忙しく働き、熟達し、いつもそれ以上のことを望んで強情だと書いている(ゲーテ『イタリア紀行』1786年 - 1788年)。1782年に父親が、1795年には夫が亡くなった。カウフマンはインターヴァルはあったもののアカデミーへの寄贈を続けた。最後の出展は1797年だった。その後は小品を描き、1807年にローマで没した。アントニオ・カノーヴァの指揮で壮麗な葬儀が執り行われ、その栄誉が讃えられた。サン・ルーカ・アカデミア(Accademia di San Luca)全員に、多数の聖職者、ヴィオルトォージたちがサン・アンドレア・デッラ・フラッテ教会の墓まで行列し、ラファエロの葬儀と同じように、カウフマンの素晴らしい絵も運ばれた。

評価と影響 [編集]

アンゲリカ・カウフマンの作品の名声は長く続かなかった。カウフマンは優美な才能とかなりの技術を持っていたが、描かれた人物には多様性と表情が欠けていた。さらにカウフマンの描く男性は男性的な女性たちだった(当時、女性画家は男性のモデルを使うことを許されなかったことは注意すべきである)。しかし、カウフマンの色使いは、グスタフ・フリードリヒ・ワーゲン(Gustav Friedrich Waagen)が「cheerful(陽気)」と定義するほど鮮やかだった。1911年の時点で、カウフマンの筆によって装飾された部屋があちこちに現存している。ハンプトン・コート宮殿にはブランズウィック公爵夫人の肖像画が、ナショナル・ポートレート・ギャラリーには自画像がある[1]。他にも、カウフマンの絵は、パリ、ドレスデン、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館、ミュンヘンのアルテ・ピナコテークにある。ミュンヘンのもの[2]はナショナル・ポートレート・ギャラリーの別ヴァージョンで、フィレンツェのウフィツィ美術館にもう1枚ある。私蔵されている2、3の作品がバーリントン・ハウスでのOld Mastersで展示された。しかし、最もよく知られているのはルイージ・シアボネッチ(Luigi Schiavonetti)やフランチェスコ・バルトロッツィ(Francesco Bartolozzi)他がカウフマンのデザインから制作したエングレービングであろう。とくにバルトロッツィの作品は収集家たちに今でも人気がある。

画家で愛国者でアメリカ美術界の大家チャールズ・ウィルソン・ピールは子供たちにヨーロッパの巨匠たちの名前をつけたが、アンジェリカ・カウフマン・ピールという娘がいた。

1810年、ジョヴァンニ・デ・ロッシがカウフマンの伝記を書いた。それを元に1838年にレオン・ド・ヴァイイは恋愛小説を書き、1875年にはリッチモンド・リッチー(Richmond Ritchie)夫人作と言われるチャーミングな小説『Miss Angel』が「コーンヒル・マガジン(Cornhill Magazine)」に掲載された。

カウフマンの育ったシュヴァルツェンベルクには、カウフマンから名を取った「アンゲリカ・カウフマン・ザール(Angelika-Kauffmann-Saal )」というコンサート・ホールがあり、国際的に有名なリートおよび室内楽の音楽祭「シューベルティアーデ・シュヴァルツェンベルク」の主会場となっている。

脚注 [編集]

1. ^ NPG 430
2. ^ pinakothek.de

参考文献 [編集]

* この記述には、パブリックドメインの百科事典『ブリタニカ百科事典第11版』本文を含む。


* Rosenthal, Angela. (2006). Angelica Kauffman: Art and Sensibility. New Haven, Connecticut: Yale University Press. ISBN 0300103336

外部リンク [編集]
ウィキメディア・コモンズ
ウィキメディア・コモンズには、アンゲリカ・カウフマンに関連するカテゴリがあります。

* Information Angelika Kauffmann in Schwarzenberg (GERMAN; also contains information and articles both in ENGLISH and ITALIAN)
* Vorarlberg Landesmuseum in Bregenz

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3" より作成
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エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン

エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン
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エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン
麦藁帽子をかぶった自画像、1782年

エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン(Élisabeth-Louise Vigée Le Brun, 1755年4月16日 - 1842年3月30日)は、18世紀の最も有名なフランス人女流画家である。

生涯 [編集]

画家ヴィジェの娘としてパリで生まれ、親から最初の絵画教育を受けたが 、ガブリエル・フランシス・ドワイエン、ジャン=バティスト・グルーズ、クロード=ジョセフ・ヴェルネ他、当時の大家たちからの助言の方が彼女のためになった。彼女は10代の早い時期に、すでに職業として肖像画を描いていた。アトリエが無許可営業のため差し押さえられてから、組合サロンに彼女の作品を喜んで展示した聖ルカ組合に申し込み、1774年10月25日に聖ルカ組合の会員になった。

1776年に、画家で画商であるジャン=バティスト=ピエール・ルブランと結婚した。多くの貴族の肖像画を描き、画家として成功した。マリー・アントワネットの肖像画を描くためヴェルサイユ宮殿に招かれ、次の数年間ヴィジェ=ルブランは王妃や子供達、王族や家族の肖像画を数多く依頼され、王妃を満足させた。

1781年にヴィジェ=ルブランは夫と共にフランドル(現ベルギー)とオランダに旅に出た。フランドルの大家の作品がルブランを刺激し、新しい技法を試みさせた。その場所で、ルブランは後のオランダ王ヴィレム1世を含む、数名の貴族達の肖像画を描いた。
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ガリア服を着た王妃マリー・アントワネット、1783年

1783年3月31日、ヴィジェ=ルブランはフランスの王立絵画彫刻家アカデミーの会員に、歴史画家として迎えられた。女流画家アデライド・ラビーユ=ギアールも同じ日に入会が認められた。ヴィジェ=ルブランの入会は、夫が画商であることを理由にアカデミーを管理する男性達に反対されたが、結局、彼らの主張はルイ16世の命令により覆された。マリー・アントワネットが自分のお抱え画家のために、夫に相当な圧力をかけたからである。同日に2名以上の女性の入会が認められたことで、女性と男性メンバーではなく、女性同士が比較されがちになった。

フランス革命の最中、王族が逮捕された後、ヴィジェ=ルブランはフランスから逃れ、数年間をイタリア、オーストリア、ロシアで生活し、画家として働いた。そこでは貴族の顧客を扱ったそれまでの経験が役に立った。ローマでは作品が批評家から大絶賛され、ローマのアカデミア・ディ・サン・ルカ(Accademia di San Luca)の会員に選ばれた。ロシアでは貴族から歓迎され、女帝エカチェリーナ2世の皇族一員を多数描いた。ロシア滞在中にヴィジェ=ルブランはサンクトペテルブルク美術アカデミーの会員になった。

第一帝政期にヴィジェ=ルブランはフランスへ戻ったが、またヨーロッパ上流階級からの引く手あまたの中、イギリスを訪れ、バイロンを含む数名のイギリス貴族の肖像画を描いた。1802年には帝政時代のフランスに帰国し、ナポレオン・ボナパルトの妹の肖像画を描いているが、ナポレオンとの折り合いが悪く、1807年にはスイスに赴き、ジュネーヴのSociété pour l'Avancement des Beaux-Artsの名誉会員になった。フランスが王政復古するとルイ18世に手厚く迎えられ、フランスを安住の地とした。

ヴィジェ=ルブランは1835年と1837年に回想録を出版した。それはロイヤル・アカデミーが支配した時代の終わりにおける芸術家の育成について、興味深い視点を提供した。
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1790年にフィレンツェで描かれた自画像

その後もヴィジェ=ルブランは、旺盛な創作活動を続けた。50代でイル=ド=フランス、イヴリーヌ県のルーヴシエンヌに家を購入し、1814年の戦争中にその家がプロイセン軍に押収されるまでそこに住んだ。その後彼女は、1842年3月30日に没するまでパリに留まった。ヴィジェ=ルブランの遺骸はルーヴシエンヌへ引取られ、住み慣れた家の近くの墓地に埋葬された。

エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランの墓碑銘は“Ici, enfin, je repose…”(ここで、ついに、私は休みます…)であった。

余録 [編集]

ヴィジェ=ルブランは18世紀の最も重要な女性芸術家だと考えられている。彼女は660の肖像画と200の風景画を残した。優雅な自画像もよく知られる。個人コレクションに加え、彼女の作品はロンドンのナショナルギャラリーのような欧米の主要な美術館で見ることが出来る。

画家としては名声を博したが、夫は賭博好きであり、一人娘も長じてから素行が悪かったなど、家庭的には恵まれなかった。

参考文献 [編集]

* この記述には、パブリックドメインの百科事典『ブリタニカ百科事典第11版』本文を含む。


* Lebrun, Souvenirs, Paris, 1835–1837 (英訳:Lionel Strachey, New York, 1903).

ウィキメディア・コモンズ
ウィキメディア・コモンズには、エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランに関連するマルチメディアがあります。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%EF%BC%9D%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B8%E3%82%A7%EF%BC%9D%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3" より作成
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モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール

モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール(Maurice Quentin de La Tour, 1704年 - 1788年)は、フランスのロココ期の画家。パステルを使った肖像画家として有名で、国王はじめ、宮廷人、知識人などを描いた。「ポンパドゥール侯爵夫人の肖像」は代表作のひとつ。

フランス北部エーヌ県のサン=カンタンの出身であったが、若くしてパリに出、当時パリで流行していたイタリアの女流画家カリエーラのパステル画に魅了され、数々の名作を残した。

代表作 [編集]
ポンパドゥール夫人(1755年、ルーヴル美術館所蔵)

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* ポンパドゥール侯爵夫人の肖像(ルーブル美術館所蔵)

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Western painting

Western painting
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See also: Western art, History of painting, Western art history, History of art, Art history, Painting, and Outline of painting history

495px-Jan_Vermeer_van_Delft_007.jpg
Jan Vermeer, Girl with a Pearl Earring, known as the Mona Lisa of the North, 1665–1667,[1]

427px-Edouard_Manet_016.jpg

Édouard Manet, The Balcony 1868


Art history
series
Prehistoric art
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Western art history
Eastern art history
Islamic art history
Western painting
History of painting
Art history

The history of Western painting represents a continuous, though disrupted, tradition from antiquity.[2] Until the mid 19th century it was primarily concerned with representational and Classical modes of production, after which time more modern, abstract and conceptual forms gained favor.[3]

Developments in Western painting historically parallel those in Eastern painting, in general a few centuries later.[4] African art, Islamic art, Indian art,[5] Chinese art, and Japanese art[6] each had significant influence on Western art, and, eventually, vice-versa.[7]

Initially serving imperial, private, civic, and religious patronage, Western painting later found audiences in the aristocracy and the middle class. From the Middle Ages through the Renaissance painters worked for the church and a wealthy aristocracy.[8]Beginning with the Baroque era artists received private commissions from a more educated and prosperous middle class.[9] By the mid-19th century painters became liberated from the demands of their patronage to only depict scenes from religion, mythology, portraiture or history. The idea "art for art's sake"[10] began to find expression in the work of the Romantic painters like Francisco de Goya, John Constable, and J.M.W. Turner.[11] During the 19th century the rise of the commercial art gallery provided patronage in the 20th Century.[12][13][14]

Western painting reached its zenith in Europe during the Renaissance, in conjunction with the refinement of drawing, use of perspective, ambitious architecture, tapestry, stained glass, sculpture, and the period before and after the advent of the printing press.[15] Following the depth of discovery and the complexity of innovations of the Renaissance the rich heritage of Western painting (from the Baroque to Contemporary art) continues into the 21st century.[16]

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